ponkotufukurai

福来 · @ponkotufukurai

23rd Dec 2010 from Twitlonger

【性表現が世の中に氾濫(?)していること自体が児童虐待である】という主張について考えた。


いろいろ突っ込みどころがあるが、突き詰めていくとそういう方の主張は氾濫具合云々などの問題ではなく、そういう表現がある本を子どもが買えることが児童虐待である、と言っているようだ。

彼らが言っているのは氾濫の程度についてではない。非難の対象は「ゾーニングの程度」ではない。では彼らの言うとおり氾濫していると仮定して、青少年がそういった性表現に触れるのが、どうして彼らの中で「虐待」となるのか考えてみる。

虐待、とはその対象に対し力関係を利用し酷い行いをすることである。12歳以下の児童に性的なものを見せるのは性虐待だし、それ以上でも成人でも男女の区別なく性的なものを無理矢理見せることは普通にセクシャルハラスメントだ。しかし本屋に置いてある段階でこの虐待は不可能である。なぜなら中身を見ることが出来ないからだ。推進する人がよく言う「子どもが気軽に買えることが問題」になるとすると、虐待の定義は次のようになる。



・本屋・出版社・購入者などの大人が子どもに対し監督責任を果たしていないことが虐待である


例えば児童が喫煙をしていたら、タバコは健康を損なう恐れ、依存症になる恐れがある「有害性」を理由にタバコを取り上げる。販売する側に身分確認を義務づける。喫煙を放っておいたら確かに監督責任を果たしていない、虐待と言えるだろう。


監督責任を果たさず放任にすること(ネグレクト)は虐待である、というのは真実である。

しかし漫画は有害性が立証できない。そこから販売する側に責任はない。虐待と主張する人は「なぜダメか」を自分自身で考え、子どもに伝える義務が発生する。親の説明責任が反対派の言う「親のゾーニング責任」である。どちらがネグレクトに繋がるか考えてみると面白い。





・放任と対をなす虐待 束縛・支配


ではもし仮に過激な性表現の本を子どもが持つことが「放任」という虐待だとしたら、もう一つ必ず逆ベクトルの虐待が発生する。それは「束縛・支配」という虐待である。表現の自由については放任について追求されることが多いが、虐待は反作用の「束縛・支配」がセットで存在する。

深夜アニメを見ていたら、中学生が父親に18禁エロゲを見つかって処分されそうになる描写が出てきた。親の立場からしてみると、18禁のものを持っているだけで子どもに不相応だと感じ、きちんとしつけなければというあせりも理解できる。では親の独断で有害性の立証出来ないものを捨てるのは正しいのだろうか?ちなみに父親が処分する理由は「18禁という意味を考えろ」であった。これ以上親の気持ちを表した言葉もないと思うが、正直それが親の監督説明として合理的かどうかはよく分からない。


真面目な話、他人の持ち物を勝手に捨てることはいくら家族でも人権侵害である。以前ひどい家庭内虐待を受けている人から、頑張って耐えていたけど立ち直れなくなったきっかけが大事にしていた本を見つけられ、親に捨てさせられたことだったと聞いた。非常に理解できる話だった。



私はアニメーションで父親がやったことは「しつけ」だと思い、後者の体験談は虐待だと感じた。

大事なことなのだが、これはあくまで主観のライン引きでしかないのだ。

していることは同じなのにどうしてこのような差が出てくるのか?私はその後きょうだい関係が良好なこと、父親が子どもを思いやっているところを視聴者に提示されることで「虐待ではない」という判断に至った。もし捨てられたとして、その後人間関係の回復が出来るかどうか。普段から親に殴られて行動の束縛も厳しい場合、そこに信頼関係など存在しない。たった一回子どもの持ち物を捨てただけで取り返しがつかなくなることなどいくらでもあるだろう。

アニメの方で描かれた家庭は多分修復できるだろうと思ったけど、それだってまったくもってただの主観に過ぎない。信頼関係はとてもデリケートでケースバイケースだ。どんなことで壊れるか誰にも分からない。一度壊れてしまった関係は修復が非常に困難だ。壊れなかったものを指して「大丈夫なんじゃない?まあ親の気持ちも分かるよね」と言ってしまうのもすごく無責任である。


親の一存で自分の持ち物を処分させられそうになった子どもからしてみれば、親の愛情の量などまったく問題ではなく辛いことだ。虐待としつけの境目は非常に曖昧で、紙一重の主観に委ねられている。賛成した人はいつ自分が放任とは逆ベクトルの「束縛・支配」という虐待を冒してしまうのか分かっていない。

「放任」が虐待であるなら、「束縛・支配」もまた虐待なのだ。




・名目上「無宗教」である日本の中で


もし自分が自覚のない虐待をしてきた場合、子どもが精神的に耐えられない限界を超えてしまう可能性もある。虐待の話を出すなら反作用もきちんと考えなくてはならない。子どもの大きな支えになっているものの中に、漫画やアニメが入っていることなど普通にあるだろう。


たかが漫画、
たかがアニメ・ゲームだ。
ただ私には「たかが」とは言えないのだ。

それを取り上げられるという絶望は多分、「それしかない」人間にしか理解できない恐怖だ。本来なら人間関係で成し遂げる何かを奪われてきた人間が、心の支えとしてきた信じる何か。すがる何か。どこにも逃げられない人間が唯一安息をあられる場所、多分それを「信仰」と呼ぶんだと思う。

私は漫画好きにこの問題を説明するとき「漫画好きにとって漫画やアニメは宗教だ」という話をする。活力を与えてくれると同時に、世界を信じさせてくれた。子ども達にとって大切な宗教を下らなくてふしだらだから手放せと、どうして簡単に言えるだろうか。他宗教を押しつけられることに子どもだろうと耐えられるのか。大事な聖典を簡単に取り上げ捨て去ることについて、どの面下げて虐待でないと言えるのか。


今回の条例は多くの親からしてみたらよく分かんないし、オタクが被害妄想になって屁理屈こねてると見られがちだが、大きな権利が親から奪われてしまったことを意味している。すでに親の手から「しつけと虐待の主観的定義」は取り上げられてしまった。

子どもが性的なものを持っていたら親は思考停止して、いくら子どもに泣かれようが捨てなくてはいけない。親の信念で子どもを教育する、家庭を築いていく、という綺麗事は通用しない。本を取り上げることは虐待なのか?それとも本が売られることが虐待なのか?親のしていることは支配なのか放任なのか、それとも適切なしつけなのか?それを個人が考える自由が奪われてしまったことに多くの人間は気がついていない。



子どもに自分の信念を伝えるという権利は徐々に奪われている。

誰かの家庭が崩壊したとき、誰も責任は取ってくれないにも関わらず。

すごく怖い話。

そういう話も「ごちゃごちゃうるさいオタクの屁理屈」にしか見えないというホラー
(´・ω・`)

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