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Chang Sa · @changsa

14th Dec 2010 from Twitter for Mac

人権思想を使った反差別の疑問
差別だと広くコンセンサスが得られている差別より、コンセンサスが得られていない差別のほうが、問題を訴えるより深刻でしょう?
人権思想に基づいた差別において、可視化されていない差別における少数派はもっとまずいことになるんじゃないかしら。

人権を欲するマイノリティは結局は、社会権威に帰属して得られる肯定を求めている。差別すべてを解体するのではなく、差別する側に立ちたがってい る。
「あなたたちの差別意識に共感します。わたしたちも差別する側にまぜてください」でしかない。

それでは、ある差別が緩和されることによって、別な差別が強化されてしまう。
こういうことは、人権運動全般で起こっている。


性差別を訴える人権運動家がレイシストであった場合、たいていのレイシスト以上に強いレイシズムを持っている。
そして、自分の主張を訴えるために、人種、民族的偏見を利用している。

人種、民族差別を訴える人権運動家がセクシストであった場合、たいていのセクシスト以上に強いセクシズムを持っている。
そして、自分の主張を訴えるために、性的偏見を利用している。

まだ差別と広く認識されていない、ポジティブ思考/ネガティブ思考や、生の肯定/生の否定のカテゴリーでの権力分配は、たいていの人権運動家が信 奉し、差別的に排除することによって、自分たちの運動の正当性の偽装に利用している。

何故、人権運動は、自分たちが見えている差別以外の差別が見えないことがこうも多いのか。
何故、自分たちの扱う差別問題を緩和させる方法が、他の差別を強化することばかりなのか。

そこで、自認の問題。

差別は、ある規範を絶対肯定し妄信し自明視し、その規範を丸暗記して、それに一致しているかどうかで、価値付けを行う。
その無理矢理な規範を広く共有することで、マジョリティの利益を作り出す。
ついでに、その価値付けによって排除出来る対象が作れた場合には、その排除対象を蔑視したり支配したりすることで、更に利益を高める。

自己存在の否定と肯定は、規範からの承認を得られるかどうかが基準となるため、成員の認識と思考と行動は、常時、規範を参照して選択される。
偉い規範に認められていることが、存在の肯定の根拠。

信仰する規範が人種の規範なら人種差別になるし、信仰する規範が性の規範なら性差別になって、明るい生の肯定なら根暗差別になって、表面的な違い は出てくるけれど差別の根本はどれも、規範を参照しての存在肯定ね。
自分自身ではなく、規範の設定したカテゴリーに同一化すること。

そして、人類の、規範を参照しての存在肯定で、すべてに共通するものは何かというと、自分が人類であるという認識なのよ。
その帰属意識は、自我の根幹として扱われ、認識の在り方を決定づけている。

セックスを認識することは不可能で、認識されてしまったらそれはどうしたってジェンダーであり、帰属として扱われる。
それと同じに、自分の種を認識することは不可能で、認識されてしまったらそれはどうしたって構築された概念としての種への帰属として扱われる。
規範による属性のカテゴリー化がなければ、そもそも種の自己認識もありえない。

マイノリティ帰属の認識であれば、それは差別にはならないのだけれど、人間の造った種の規範において人間は圧倒的なマジョリティ性が付与されてい る。
人間を自認し、そのフィルターを通して現実を認識する。

力への意思に基づいた認識の様式が、既に自我の根幹にセットされている。
そのため人権信奉者は、いくら差別反対と自己評価していても、それと気づかず他のより可視性の低い差別を行ってしまうのではないかしら。

「差別は人として間違っている」
そんな言い方が、人権の主張には溢れているでしょう?

先に書いた、差別の根源。
「ある規範を絶対肯定し妄信し自明視し、その規範を丸暗記して、それに一致しているかどうかで、価値付けを行う」
「男として」、「女として」、「日本人として」…
「○○として」という、理由も何もあったもんじゃない、「とにかく正しいから正しいんだ」という権威参照の正当化は、差別主義の根本で、「人とし て」も同じこと。

人権思想も、あらゆる既存の差別主義と同じく大元は、権威の絶対参照。
既存の差別主義者は、人権信奉者からの批判に、「思想の違いだから容認しろ。人権を振りかざして我々を排除しようとするおまえたちこそ差別主義者 だ」と訴える。
人権信奉者はまず、その訴えにまともに答えずに握り潰す。
「人間として間違っている」と、人間規範の権力を使って握り潰す。
それが差別主義じゃなくて何?

既存の差別主義者の人権信奉者批判には一理ある。
人権信奉者は自覚なく、既存の差別主義者と全く同じやりくち、権威づけられた規範の参照で、差別を批判する。
どっちも差別主義なの。
人権思想に基づいた差別主義批判は、この差別はいい、この差別はだめ、という争いでしかない。

男性自認者は性規範の設定した男性性のフィルターを通して世界を認識する。
国粋主義者は国家規範の設定した国民性のフィルターを通して世界を認識する。
すべて、権威づけられた規範が認識にかけているフィルターにすぎない。

差別の間違いは、フィクションであるフィルターを事実として扱うこと。
フィクションを事実と言ったらそりゃ間違いよ。
それを批判するのには、批判する側の立場なんて関係ない。
「1+1=3? それは間違いです」
それだけのこと。

それだけのことなのに、差別主義者は「偉い性別先生がこれが正しいって言ってる!」と語り続ける。
人権信奉者はそれに対して「偉い人権先生が間違ってるって言ってたよ!」ばかりを繰り返す。
常にこのワンパターンを繰り返す。

そして、そのワンパターンを繰り返すものに共通しているのが、人間自認なのよ。
そしてその自認対象である人間という属性は、自我の根幹に置かれている。
人間自認者は人間規範の設定した人間性のフィルターを通して世界を認識する。
あくまで、「○○として」=「偉い先生が定義した属性に基づいて」現実を認識する。

人権に基づいた差別批判が、他の差別を利用してしまうのも、必然だね。
その差別を否定するルーツが、権威の絶対参照なんだもの。
認識を行う根本がそうだから、それしかできないんじゃない?


だからこそ、既存の差別で、積極的に差別に荷担するわけではなく、ただ現状に流されることで、差別を容認してしまう者はそれをもって「どうせ人間は差別す るものなんだ。
だから、差別だ差別だと騒いでも仕方ない」と結論づけたシニシズムで、その場その場で長いものに巻かれることを正当化する。

でも、仕方なくはないのよ。
「どうせ人間は差別をするものなんだ」
そこでいう「人間」とは、認識の上にある概念にすぎない。

概念を本質と誤認しているにすぎない。
「どうせ人間は差別をするものなんだ」
これはもう少し正確に言えば、「どうせ、人間という社会規範が設定した属性に同一化したものは差別をするものなんだ」となる。

属性に同一化した見解が、差別と不可分ならば、属性に同一化しなければいいのよ。
人間属性への同一化をなくすなんて不可能だと思う?

バリバリの性規範信奉者は、ジェンダーを構築物だと認識することをしない/できない。
「性差別は仕方ない。だって男と女は違うんだから」
いやあ、その男とか女とかっていうのほとんどすべてがつくりごとだから。嘘っぱちを根拠にするんじゃないよ。

そして、ジェンダーを権力による構築物だと認識してる/しようと心がける/したいと思うかたはいるわ。
文化的社会的な性規範に関してそれができて、文化的社会的な種規範に関してはそれができないとする根拠はないわ。
狼に育てられた子どもは、人間を自認していない。
人間自認が避けられないものではない証拠よ。

差別への反対を述べるのに、人間属性という権威を参照する必要はない。
被差別者の味方をしないで、主張するのは、「嘘を事実と言うのはやめろ」。それだけで良くない?

権利の拡大って、「名誉○○にして」系の権利獲得運動の思考の影響がないかなあ?
同性婚みたいな贅沢な権利の主張じゃなくて、生きる権利のような基本的人権の物言いって、特権享受者に媚びてない?

「被差別者の味方をしない」っていうのの根拠。

マジョリティがマイノリティ殺害の権利を持ってなければ、マイノリティは殺されないのよ。
ほんとは、マジョリティは殺人の権利を手放せ!であるべきなのに、マジョリティを刺激しないために、マイノリティに生きる権利を!と言ってるん じゃない?

差別の解消には、マイノリティの権利保障なんて不要だわ。
マジョリティのいんちき特権を剥奪するだけで済むでしょ?
マジョリティにマイノリティをいたぶる権利がなければ、マイノリティにいたぶられない権利を保障する必要はないわ。

権利拡大なんて関係ない。
だから、ミジンコやら微生物やらのマイノリティは関係ない。
セクシュアルマイノリティ差別に、セクシュアルマイノリティは関係ない。
差別はあくまでも差別者の、嘘っぱちの自己肯定の問題だわ。

以上をまとめると。
・人権思想に基づく差別緩和は、可視化されていないマイノリティへの差別を強化してしまう。
・差別はしかたがないことじゃない。
・被差別者の権利運動は差別問題の解決にはならない。
そんなとこかなあ。

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