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1st May 2010 from Twitlonger

【『原発導入のシナリオ~冷戦下の対日原子力戦略~』書き起こし】

「NHK現代史スクープドキュメント」
制作:NHK(1994年)

動画: http://video.google.com/videoplay?docid=-584388328765617134#

【書き起こし】
 去年(1993年)12月、アメリカ政府は核開発に関わる、隠された事実を明らかにした(クリントン大統領の映像)。冷戦が本格化した1940年代後半から50年代、放射能の影響を調べる人体実験が行われていたというのである。

「プルトニウムの人体への注射」
「ベータ線に対する皮膚の反応」

 こうした中、アメリカはもう一つの巨大な実験を準備していた。

(水爆ブラボーの映像)

 1954年3月1日、アメリカは南太平洋ビキニ環礁で「水爆ブラボー」の爆発実験を行った。この実験で放出された「死の灰」が、近くで操業中のマグロ延縄(はえなわ)漁船、第5福竜丸に降り注ぎ、乗組員23人が被曝した。いわゆる「第5福竜丸事件」である。広島、長崎に次ぐ3回目の被曝事件として、日本では激しい反米世論と放射能パニックが巻き起こった。

 この頃、一人のアメリカ人が銀座で日本人と密談を交わしていた。二人は、日米関係に亀裂が入ることを恐れ、ある計画を具体化すべく協力を約束した。それが日本に原子力を導入する重要なステップとなっていった。
 日本人の名は柴田秀利、当時日本テレビの重役であった。柴田は日本の初期の原子力開発に関わる膨大な書類を残している。

(数々の書類のアップ)

 政財界の要人の連絡先を記した手帳。アメリカとの頻繁な書簡の往復。そして、政府側の内部文書などその数は200点を超える。
 そこからは日米が手を組み、反核感情が高まる日本に原子力発電を導入するまでのシナリオが鮮明に浮かび上がってくる。

「毒は毒をもって毒を制する」(印刷文字のアップ)


(タイトルテロップ)"原発導入のシナリオ~冷戦下の対日原子力戦略~"

 原爆でアメリカに後れをとったソビエトは1950年代、水爆の開発に躍起になっていた。そして、1953年8月12日。ソビエトはアメリカに先んじて実用的な水爆の開発に成功した(第1回水爆実験)。核開発競争で初めてソビエトが優位に立ったのである。
 4ヶ月後、アメリカのアイゼンハワー大統領は、国連総会で世界に向けて演説を行った。それは、原子力の情報を全て機密扱いにしてきた従来の政策を大きく転換するものであった。

(1953年12月8日国連にて)
アイゼンハワー大統領:「私は提案したい。原子力技術を持つ各国政府は、蓄えている天然ウラン、濃縮ウランなどの核物質を、国際原子力機関(IAEA)を作り、そこにあずけよう。そしてこの機関は、核物質を平和目的のために、各国共同で使う方法を考えてゆくことにする。」

 アトムズ・フォー・ピース、「原子力の平和利用」を呼びかけたこの提案は、画期的な核軍縮提案と見られた。
 ウラン鉱物の中に含まれる、核分裂性物質ウラン235。その濃度を上げた、いわゆる「濃縮ウラン」が核兵器に使われる。アメリカの提案は、核兵器用に生産した濃縮ウランを、原発など民間に転用することにより、軍縮を進めようというものであった。
 しかし、この提案の裏にはアメリカの核戦略におけるもう一つの大転換があった。演説の5日前に開かれたアメリカ国家安全保障会議の文書(「1953年12月4日」の日付入り)にはこう書かれている。

「アメリカは同盟国に対して、核兵器の効果(Weapons Effects)、核兵器の使用法(Use of Atomic Weapons)、ソ連の核戦力(Soviet Atomic Capabilities)等について、情報を公表していくべきである。」

 それは、NATOなど同盟諸国に、アメリカの核兵器を配備しようとする計画であった。平和利用を呼びかける一方で、西側諸国の核武装を進めていたのである。
 ソビエトはアメリカの二枚舌を非難して、原水爆の無条件禁止を世界に訴えた。そして、米ソは互いに核の脅威を煽り立てる宣伝合戦を繰り広げていく。
ソ連の国内向け宣伝映画:「(原爆の映像)これが原爆です。巨大な爆発力を持つ原爆は、アメリカによって第二次大戦で初めて使用されました。いかにしてアメリカはソビエトとの戦争に勝利するか、そんな内容の雑誌が、アメリカでは発行されています。すでに1945年以来ずっとワシントンでは、ソビエトとの核戦争に備える動きがあったのです。」

アメリカの国内向け宣伝映画:「(原爆の映像)原爆だ! 頭を下げて隠れろ! (コーラスが流れる)♪頭を下げて隠れろ♪頭を下げて隠れろ…」

 アメリカは、海外での広報宣伝活動を強化するため、海外各地に広報文化交流局、いわゆる「USIS」を置いた。東京には、当時虎ノ門のアメリカ大使館別館にUSISが設置されていた。USISは、新聞や放送、映画等のメディアを通じて、アメリカの原子力平和利用計画の宣伝を進めていった。

元USIS局次長ルイス・シュミット:「われわれUSISは、日本での原子力平和利用の宣伝活動に特に力を入れました。日本は原爆が投下された唯一の国であり、いかなる形の原子力計画に対しても反発していたからです。」

 アメリカは、原子力平和利用計画を推進する一方で、ソビエトを凌ぐ水爆の開発に全力を上げていた。アイゼンハワーの演説からわずか3ヶ月後の1954年3月、ビキニ環礁で秘密裏に水爆実験「キャッスル作戦」が実行された。

(水爆ブラボー、1954年3月1日の映像)

 秘密だったはずの実験は、第5福竜丸の被曝事件によって世界中に知れ渡った。やがて、ビキニ近海で獲れたマグロから放射能が検出され始めた。食料品の汚染は国民の不安をかき立て、アメリカの核実験に対する反発が強まった。さらに、雨からも微量の放射能が検出され、野菜や牛乳等にも汚染の疑いが起こり、放射能パニックが広がっていった。
 原爆の日を迎えた広島でも、アメリカに対する非難の声が相次いだ。

広島市民の声「アメリカは人道支援などと言っておるけれども、何が人道支援が唱えられるんだ。原爆というものはもう、この世からないようにしてしまったらええ。」

元USIS局次長ルイス・シュミット:「私たちがせっかく積み重ねてきた努力も水の泡になってしまいそうでした。まったく最悪の事態だったと言ってもいいでしょう。第5福竜丸事件の後、日本人はアメリカの原子力平和利用計画にさらに疑いを強めるようになってしまったのです。」

 柴田秀利(ひでとし)は、反米に傾いた世論の動向を危惧していた。柴田は、このビキニ事件が起こした大きな波紋を次のように記している。

「日本は唯一の被爆国であり、こと原子力というと、たちまち人々の神経は苛立ち、怒髪、天を衝く。原爆アレルギーの最たる国である。日本人全体の恨みと怒りは、それこそキノコ雲のように膨れあがり、爆発した。その動きを見逃す手はない。たちまち共産党の巧みな心理戦争の餌食にされ、一大政治運動と化した。」(柴田秀利の手記より)

 柴田は、吉田総理大臣を始めとする政財界の上層部に通じていた。また、国内のみならず、アメリカにも多くの人脈を持っていた。

(柴田とアイゼンハワー大統領とのツーショット写真)

 戦後最大の労働争議の一つと言われた読売争議。柴田はその中で頭角を現した。GHQの担当記者だった柴田は、GHQ幹部を動かして、組合側の要求を抑え、経営側を勝利に導いた。柴田は、社主・正力松太郎の懐刀(ふところがたな)として次第に重用されるようになった。そして、日本テレビの創設に深く関わり、GHQの人脈をもとに、アメリカとの交渉に辣腕を振るったのである。
 手記によれば、柴田は第5福竜丸事件の後、銀座の寿司屋で一人のアメリカ人と接触を重ねていた。

「このまま放っておいたら、せっかく営々として築き上げてきたアメリカとの友好関係に決定的な破局を招く。日米双方とも対応に苦慮する日々が続いた。このときアメリカを代表して出てきたのが、D・S・ワトソンという、私と同年輩の、肩書きを明かさない男だった。私は告げた。『日本には毒をもって毒を制するという諺がある。原子力は諸刃の剣だ。原爆反対を潰すには、原子力の平和利用を大々的に謳い上げ、希望を与える他はない。』」(柴田秀利の手記より)

 柴田の書簡にも名前の登場する、ダニエル・S・ワトソン(Mr. Daniel S. Watson)。ワトソンとはいったい何者だろうか? 
 アメリカ・コネチカット州にかつてワトソンと同僚だった人物がいた。彼は匿名を条件に電話インタビューに応じた。

「なぜワトソンを知っているのですか?」
「同じ時期に東京に駐在し、政府のために働いていたからだ」
「ワトソンは心理戦略などに関わっていましたか?」
「そのとおりだ」
「情報は、国家安全保障会議などに届けられていたのですか?」
「そのとおりだ。当時は、アイゼンハワー政権の時代で、大統領は原子力平和利用計画には特別熱心だったからね」
「すると、原子力平和利用計画についての情報は…」
「情報は、かなり高いレベルの所に届けられていたよ」

 ワトソンはメキシコに住居を移していた。メキシコ南部にある、クエルナバーカ。メキシコ屈指の高級保養地クエルナバーカに、ワトソンは今も健在であった。ワトソンは日本での活動を終えた後、パキスタン、香港、ベトナムなどでアメリカ政府のために働いたという。しかし、彼は所属機関や日本での仕事の目的については決して明かそうとしなかった。

ダニエル・ワトソン:「私が政府のどの組織に属して、どこに報告していたのかは、当時柴田にも伝えませんでした。日本に来ている公式の目的についても同じです。柴田も、私に対して同様の態度をとっていました。私が言えるのはそれだけです。柴田は明らかに首相官邸と連絡を取り合っていました。私は、日本の首相から出された様々な提案を、柴田を通じて受け取っていました。私は非常に驚きました。それはテレビ局の重役がするような提案ではなかったからです。全くレベルの違うものでした。」

(資料コピーのアップ)
 対日政策の進行状況を記した当時の国務省の報告書。第5福竜丸事件後の対日政策について、次のように記されている。

「核兵器に対する日本人の過剰な反応ぶりは、日米関係にとって好ましくない。核実験の続行は困難になり、原子力平和利用計画にも支障を来す可能性がある。そのために、<日本に対する心理戦略計画>をもう一度見直す必要がある。」(国務省報告書より)

 ワトソン自身の説明によると、彼は1953年6月に来日した。やがて、当時のイギリスの『サンデー・タイムス』の東京特派員を通じて、柴田秀利と知り合った。目的は、読売新聞社主・正力松太郎に近づくことであった。

ダニエル・ワトソン:「日本では、新聞を押さえることが必要だとはっきり分かっていました。それも、大きな新聞をです。日本の社会は、新聞に大きく影響を受けます。日本人は一日に最低3紙に目を通し、それから自分の意見を組み立てるのです。その新聞は、当時一人の男によって経営されていました。その下には、決してミスをしない、優秀で従順な部下が揃っていました。ですから、この仕事で成果を上げるには、誰よりも先に正力さんに会って話をした方がいいと思いました。」

 当時の読売新聞社主・正力松太郎。内務省の警察官僚だった正力は、大正13年、官職を退いて読売新聞の経営に乗り出した。正力が買収したとき、発行部数わずか5万部あまりだった読売新聞は、正力の斬新な企画力と紙面改革によって、急速に部数を拡大した。
 昭和28年、正力は新たな事業拡大に乗り出した。日本初の民間テレビ局、日本テレビ放送網を創設したのである。街頭テレビのプロレス中継は爆発的なブームを呼んだ。読売新聞の発行部数は、このとき300万部に迫ろうとしていた。正力は、新聞とテレビの二大メディアを手中に収めていたのである。
 ワトソンは、柴田の仲介で正力松太郎と会談する機会を持った。ワトソンによれば、会談は第5福竜丸事件が起きる前からすでに行われていたという。

ダニエル・ワトソン:「正力は実に鋭い男で、的確な質問をしてきました。 私はすぐに本題に入り、原子力の平和利用について話をしました。日本は原子力の平和利用に打ってつけの国である。なぜなら、国内にエネルギー源がほとんどない。それが私の話のポイントでした。するとそれを聞いていた正力は目を輝かせたのです。」

 なぜ、このとき正力は原子力にそれほどの興味を示したのだろうか。

通産省工業技術院初代原子力課長・堀純郎さん:「日本が非常に貧乏していると。貧困の結果、共産化するかもしれないと。特にエネルギーが不足していると。そのために貧乏して共産化する恐れがあると。これを何とか防がなくちゃいかんと。それには、将来原子力というものがエネルギー源として非常に有望だと聞いていると。だからこれを開発してエネルギーを豊富にして、貧乏を救済し、ひいては共産化を防ぎたいと。」

 アメリカの水爆実験から半年後、第5福竜丸の無線長だった久保山愛吉さんが死亡(1954年8月23日)。死因は放射能症とされた。アメリカを非難する世論はさらに高まった。
 水爆実験に対する日本人の強い反発にどう対処すべきか。アメリカの方針が列記されたホワイトハウスの文書には次のような一節がある。

「漁民の病気の原因は、放射能ではなく、飛び散った珊瑚礁の化学作用によるものとせよ。」(ホワイトハウスの文書より)

 水爆実験の責任をとろうとしないアメリカに対し、抗議運動が広がっていった。社会党や共産党など左翼勢力は、アメリカを戦争勢力と位置づけ、アメリカと結びついた保守政権に対する攻撃を強めていった。
 アメリカは日本の政治情勢に神経を尖らせていた。極東での反共の砦となるべき日本の政治基盤が安定しないことを懸念していたのである。

元国務相日本課リチャード・フィン:「アメリカに対して友好的だった吉田政権は、弱体化する一方でした。それに対し、左翼はアメリカの核実験を非難することによって勢力を増し、日本を乗っ取る危険性さえ生まれていました。」

 ソビエトもまた、こうした日本の情勢に注目していた。日ソの国交回復を果たし、日本をアメリカから引き離す好機と捉えていたのである。当時のフルシチョフ書記長は、ソビエトの対日政策について次のような証言を残している。

フルシチョフ書記長:「日本には、アメリカに対する大きな不満があった。広島と長崎に原爆を落としたのは、ほかならぬアメリカだ。被爆者やその家族、政治家は強い不満を持っていたのだ。もし、わがソビエトの大使館が東京にできれば、日本の政治に不満を持つこれらの人々が、われわれの大使館に接触してくるようになるだろう。」

 内外の政治情勢が緊迫する中、柴田はワトソンと銀座で会い、一つの計画を持ちかけた。それは、民間施設の形を取った「原子力平和使節団("Atoms-for-Peace" Mission)」をアメリカから招き、原子力の平和利用を広く一般国民にPRしようというものであった。

ダニエル・ワトソン:「柴田に、金はあるのかと訊ねると、十分にあると答えました。ではプロデュースをこちらでやろうかと言うと、それも自分たちでやるというのです。私もそれに賛成でした。そこで私はゼネラル・ダイナミクス社と連絡を取り始めたのです。」

 その年1月、アメリカは世界に先駆けて原子力潜水艦「ノーチラス」を完成させた(1954年1月21日、ノーチラス進水式)。ゼネラル・ダイナミクス社はその開発メーカーであった。ゼネラル・ダイナミクス社の社長ジョン・ホプキンスは、原子力平和利用計画に熱心で、海外での市場開拓を財界で提唱している人物であった。柴田は、アメリカのテレビ関係者などを通じてホプキンスと連絡を取り、平和使節として来日するよう正力の意向を伝えた。

「原子力平和利用の先覚者たる貴下の訪日こそは、この際期せずして、アメリカ側からする最も効果的な反撃となることは、小生の深く確信するところであります。」(手記より)

 明けて1955年。読売新聞は元日の朝刊に、アメリカ平和使節団の招聘を告げる社告を掲載した。これ以後5ヶ月に渡り、原子力平和利用のキャンペーン記事が、度々読売新聞紙上に登場することになる。

「読売も日本テレビも、共に原子力特別調査班を作り、両社を挙げて使節団受け入れの世論作りに邁進した。私は、新聞とテレビの両メディアを相呼応させて活用する本格的な大キャンペーン開始の時の来たことを確信し、精魂を傾けていった。」(手記より)

 この頃ソビエトは、世界初の商業用原子力発電所の稼働に成功し、アメリカを驚かせた(オブニンスク原発)。そして、諸外国に対し、原子力平和利用の技術援助を行う用意があることを明らかにした。
 アメリカでは、まだ最初の商業用原発の建設が始まったばかりだった。アメリカは大きな政策転換を図った。アイゼンハワーは原子力の国際管理案をいったん棚上げする。そして、西側友好国に対し、アメリカが個別に二国間で協定を結ぶという方針を打ち出したのである。アメリカは協定締結国に対し、濃縮ウランや原子力の技術情報を供与することになった。アメリカは濃縮ウランを外交カードとして、各国をアメリカの勢力下に置こうとしたのである。
 アメリカ原子力委員会は、日本政府とも原子力協定を結ぼうと、ワシントンで日本側に対する打診を行っていた。当時の原子力委員会国際部長ジョン・ホールは、日本政府と公式な交渉を始める時期を模索していた。

元・原子力委員会国際部長ジョン・ホール:「第5福竜丸事件のせいで日本人が神経過敏になっていることはよく分かっていました。第5福竜丸事件の決着と原子力協定の公式交渉の時期が重なるのは、避けるべきだと思いました。そこで、交渉の時期を遅らせて春にすべきだ、と私は提案しました。春ならば、交渉妥結後、すぐに議会の承認を得ることもできるからです。」

 昭和29年(1954年)、日本政府は2億3500万円の原子力研究予算を成立させていた。しかし、学会には原子力に対する反発が根強く、ウラン入手の目途すら立たない状況が続いていた。アメリカからの提案は、こうした状況に突破口を開くものだった。
 1月4日、第5福竜丸事件は、アメリカ政府が補償金200万ドルを日本政府に支払うことで決着した。アメリカの法的責任は一切問わないことを条件とする、政治決着であった。
 その1週間後の1月11日、日本政府に宛てて、アメリカから濃縮ウラン受け入れを打診する書類が届けられた。しかし、外務省はこのことを外部に対して一切秘密にした。

元外務相国際協力局第三課長・松井佐七郎さん:「みんな反対したんだよ。平和利用という名の下に軍事利用に走られたらかなわんという、意中の人があったからね。非常にその…何て言うか…、火の点きやすい、非常にその…ボラタイルな、発火しやすい議論でね。今から見ると何ちゅうことかと言うけど、当時やっぱりね、火を付けると両軍にぱーっと広がる背景があったからね。やっぱり相当慎重にね、足元を見て、一つ一つ辺りを見回していかざるを得なかったんですよ。」

 その3日後の1月14日、ソビエトは、中国、東欧5ヶ国(ポーランド、東ドイツ、チェコスロバキア、ルーマニア)に対して、原子力技術や濃縮ウランの援助を行うと発表した。ソビエトも独自に二国間協定を結び、核のブロックを作ろうとしたのである。
 一方、外務省がひた隠しにしていた、アメリカからの濃縮ウラン提供の申し入れは、3ヶ月後、朝日新聞のスクープによって明るみに出た(1955年4月14日朝日新聞朝刊)。以降、日本国内の世論は受け入れの是非をめぐって二つに割れている。1週間後に開かれた日本学術会議の総会でも、この問題をめぐって議論が沸騰した。受け入れに反対する科学者たちは、原子力を通じて日本がアメリカの軍事ブロックに組み込まれる可能性を指摘し、あくまで自主開発をすべきであると主張した。
 物理学者の武谷(たけたに)三男さん、武谷さんも当時濃縮ウラン受け入れに反対した一人である。

物理学者・武谷三男さん「そりゃもちろん、アメリカでのいろんな、やってることを見ててですね、あらゆることがヤバいと。つまり軍事との区別がないわけですよ、アメリカでは。英国でもそうですけどね、軍事のおこぼれが平和利用という格好になって、そういう出発ですからね。」

 柴田の資料に、学術会議のメンバーの思想傾向を調べた書類が残っていた。警察庁と公安調査庁調べと記され、1955年当時のものと推定される資料である。当時、共産党寄りと見なされた学者には赤丸が記されている。

 2月、正力松太郎は突如、富山2区から衆議院選に立候補をすることを表明した。正力は、保守合同による政局の安定と、原子力平和利用の推進を二大公約に掲げた。この選挙で正力は初当選し、原子力導入に向けた大きな足がかりを得たのである。
 正力は、早速財界に働きかけて「原子力平和利用懇談会」を発足させ、自ら代表世話人に就任した(1955年4月28日)。経団連の石川一郎会長を筆頭に、重工業、電力業界を始め、財界の主要メンバーが集まった。学会からも原子力の導入に積極的な科学者が集められ、平和使節団受け入れの準備が整えられていった。

ダニエル・ワトソン:「正力の存在がなければ、これだけの人は集まらなかったでしょう。特に科学者たちは、地位を失うことを恐れて、断れなかったように見えました。」

 当時日本では、慢性的な電力不足の解決のために大型ダムが次々に造られていた。しかし、建設費が次第に高騰し、水力発電の発電量は限界に近づいていた。火力発電所も、まだコストが高く、将来の石炭不足も予想されていた。産業界は新たなエネルギー源を模索していたのである。
 正力は、アメリカから提供されたデータを使って、水力や火力より原子力発電の方が経済的である、と財界を説得した。正力は原子力発電の安全性についても説明した。財界誌に発表された正力の文章には、「原子炉から出る死の灰も、食物の殺菌や動力機関の燃料に活用できる」と書かれている。
 一方、アメリカ国家安全保障会議は、海外との原子力協力について次のような方針を採用していた。
「向こう10年間に経済的に競争力のある原子力発電をすることは期待できない。しかし、ソビエトは原子力開発を急ピッチで進めており、アメリカが冷戦においてリーダーシップを奪われる可能性がある」。
 電力コストの高い日本は、最も有力なターゲットとしてここに挙げられている。

当時の読売新聞社ニュース映像:「ホプキンス氏一行来日――アメリカから読売新聞社が招いた原子力平和利用の民間使節、ホプキンス、ローレンス、ハフスタッドの三氏が5月9日来日、読売新聞社主・正力松太郎氏らと固い握手を交わし、花束を受けました。」

 使節団には、ノーベル賞を受賞した物理学者ローレンスら著名な科学者が随行し、話題を集めた。一行は鳩山総理大臣他、政財界の主要人物と精力的に会談を重ね、濃縮ウラン提供の前提となる、日米原子力協定の早期締結を促した。一方、国民へのPRのために、原子力平和利用大講演会が企画された(5月13日)。講演会は人気を集め、会場となった日比谷公会堂の周りには長蛇の列ができた。会場に入りきれない人のためには街頭テレビが設置され、講演の様子や、広報映画が映し出された。

アメリカの宣伝映画(アニメ風):「核分裂によって発生した熱が発電に使われます。アメリカでは、大型の原発を建設中で、完成すればすぐに全ての都市に電力を供給できるようになるでしょう。船や飛行機に原子力を使えば、輸送革命が起きるでしょう。原子力に対して、知性に基づく確固たる態度で臨むことは、原子力時代における子どもたちの未来に関わる問題なのです。」

「読売は2頁を割いてこの講演内容の全貌を掲載したし、テレビは娯楽番組を外してその全容を生中継し、国民大衆の啓蒙に資することができた。こうして、原爆に怯え、憎み、反対の狼煙(のろし)ばかりを上げ続けてきた日本に、初めて、毒は毒をもって制する平和利用への目を開かせるかけ声が全国にこだましたのだった。舞台裏に身を潜めながら、私は喜びと感動にうち震えていた。」(柴田秀利の手記より)

 政府側の動きも活発化していた。濃縮ウラン受け入れ問題を検討してきた原子力利用準備調査会は、5月19日会合を開き、受け入れを決議したのである。民間使節の動きと政府側の動きがここに一致した。
 政府の原子力利用準備調査会の初代事務局長となった、島村武久さん。

経済企画庁初代原子力室長・島村武久さん:「民間の使節なんだけども、何か政府が大いに応援したわけです。それは、日本に大いに原子力をやらせようというよりはむしろ、そういう政治情勢を見てですね、日本が変なことにならないようにというアメリカの考えもあったと思いますね。」

(当時のニュース映像)「日米原子力協定成る ワシントン NHK」

 6月21日、日米原子力協定がワシントンで仮調印された。第5福竜丸事件から1年3ヶ月後のことである。この条約により、日本に濃縮ウランが初めて供給されることになった。
 半年後、正力松太郎は、原子力担当大臣として第3次鳩山内閣に入閣した。その時正力は、アイゼンハワー大統領に向けて一通の手紙をしたためている。

「原子力平和利用使節団の来日が、日本での原子力に対する世論を変えるターニングポイントになり、政府をも動かす結果になりました。この事業こそは、現在の冷戦におけるわれわれの崇高な使命であると信じます。 正力松太郎」
当時のニュース映像(茨城県東海村):「原子炉完成式の日を迎えて、500人が参列して、原子力センターの出発を祝います。正力国務大臣(初代原子力委員長)が歴史的なスイッチを入れます。」

 昭和32年(1957年)8月20日、アメリカから輸入された東海村の原子炉が臨界に達した。日本の原子力開発がスタートした瞬間であった。
 しかし、日本で原子力による電力の供給が始まるのは、アメリカの予想した通り、ほぼ10年後の昭和41年(1966年)のことであった。

ダニエル・ワトソン:「日本は原子力を持たなければならなかったのです。原子力を理解し、最大限に利用する必要があったのです。プルトニウムの悪用さえしなければ。それは、われわれが最初から望んだことでした。何の悔いもありません。」

 アメリカは1958年までに39ヶ国と原子力協定を結び、ソビエトに対抗していった。協定により、核物質の軍事転用は禁止された。それは、各国が米ソの核兵器ブロックの中に組み込まれていくことを意味していた。
 1957年、アメリカ国家安全保障会議に提出された報告書は、原子力平和利用計画を次のように評価している。

「過去3年、核実験に反対する激しいプロパガンダが行われたが、アメリカの立場は自由主義諸国の支持を得ることができた。原子力平和利用計画が果たした役割は計り知れないものがある。」(報告書より)

(IAEA憲章調印式の映像)

 アトムズ・フォー・ピース。アイゼンハワーは、核物質の国際管理と民間転用を訴えた。その4年後、国際原子力機関IAEAが発足。しかし、IAEAが直面したのは、むしろ平和利用を装った核兵器開発の疑惑であった。IAEAは、大国の核保有を認めたまま、核査察でも課題を抱え続けている。
 第5福竜丸事件から40年。原発は今日本の電力の3割を賄っている。日本はさらに今年(1994年)、プルトニウムを利用する高速増殖炉の実験に乗り出そうとしている。
 一方、アメリカでは、1979年のスリーマイル原発事故以来、新たな原発の発注は今も途絶えたままである。

資料提供:
アメリカ国公立文書館
アイゼンハワーライブラリー
コロンビア大学
アメリカ大使館
ロシア国立中央映像資料センター
国立国会図書館
第五福竜丸展示館
大門町立正力図書館
読売新聞社、毎日新聞社、共同通信社、中央公論社、読売映画社、日本テレビ放送網
柴田泰子、石井修、川上幸一、西山千、中村秀治、炭谷外治郎、ヴァーノン・ウェルシュ、アン・ヨーク

(終)

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